目次
1.黒漆塗桃形大水牛脇立兜
黒田長政が愛用し、黒田家のシンボルのような存在の「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」。
大水牛脇立の周高は約75センチもある立派なものですが、根本のみ桐製で作られており、美しい形状でありながらも軽量化されていました。
前立に大きな金箔押石餅紋があるものが有名ですが、実戦に使用していた兜には前立はなく桃形鉢の素朴な形状でした。
大水牛兜のデザインは当時においてはかなり斬新であったようで、文禄の役で他の武将たちから「こんなのありか!」と驚かれたとの記録も残されています。
2.大水牛兜の由来
大水牛兜の由来については「黒田家重宝故実」に詳しく記されています。
『この兜は、浅井長政の使番20人のうちの浦野若狭守が所持したものである。浦野は常に八幡神を信じていた。ある日、通夜で武運祈願してふと夢から覚めてみると、この大水牛兜が忽然と現れた。これを頂いて持ち帰り、御屋形様(浅井長政)に申し上げると、「これは信心深いその方に、八幡大明神が与えたものに違いない。」と称えて、一門旗頭を集めて宴会した。その後、浦野は黒田長政に仕えて、この兜の写しを献上した。
「この兜は近江国にて有名な兜でござる。黒田公は良将の器で、佐々木八幡のご加護がおありかと存じます。ぜひ、これをお用い下さい。」長政は喜んで受け取り、毎床の兜を被って武功を立てた。』
これを身に着けた戦にはことごとく勝利し、縁起の良い兜として長政に愛用されました。
3.仲直りの証として
長政は朝鮮出兵時に些細なことから福島正則と仲違いをしてしまいます。
帰国後に竹中半兵衛(半兵衛重治は亡くなっており、従弟の重利と思われる)などのとりなしで和解をしますが、その際に仲直りの証としてお互いの兜を交換します。
この時に長政から福島正則に渡されたのがこの「水牛の兜」でした。
福島正則から長政へは「銀箔押一の谷形兜」が渡されています。
故に関ヶ原の戦いでは、長政が一の谷兜を、正則が水牛の兜を着用して出陣しています。
光雲神社では社宝として「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」、「銀箔押一の谷形兜」ともに所有していましたが、残念ながら昭和20年の空襲によりいずれも焼失しています。
再び「黒田家重宝故実」に目を通すと次のような内容の記載があります。
『福島正則は元和5年(1619年)に広島城無断改築の咎で改易となった。その際、長政は京に残って残務整理をしていた福島丹波という者へ、林伊兵衛という家臣を派遣している。
「長政公は水牛の兜を正則殿へ遣わされた後は自身の使用を控えておりましたが、今後は着用してもよろしいかとお尋ねでございます。」
すると丹波は、「仰せはもっともなれど、正則公の性格はご存じの通りでござる。同心せずと答えられたら、いかが致しましょう?そこで、正則公の水牛の兜を返すことなく、長政殿は古来の水牛の兜を御心次第に被られればよろしいのでは?折を見て、正則公にそう伝えておきましょう。」』
大水牛を黒田家の象徴としてまた使用して良いかとの問いかけでした。
しかし、この後、長政在世の間には戦はなく、着用する機会はなかったようです。
また、弘化4年(1847年)5月に困窮した旗本福島家を救うために239両という大金で黒田家が買い取ったという記録も残されています。
4.幸運の兜
天正19年(1591年)、長政が24歳の時のこと。朝鮮の大同江において、李王理という敵の放った弓矢が長政の左の肘から小手にかけて貫通した。
長政はこの矢を抜かずに、水の深みに馬を乗り入れて二刀斬り付ける。
敵は斬られながらも鎧に取り付いてきたので、二人は川の中に落ち、長政は水中で二突きしてこの相手を討ち取った。
水面に大水牛の角先が見え隠れしていたので、家臣が泳いで長政を引き上げている。
その後も朝鮮の陣でこの兜を用いたので、武勇の誉れ高く敵国人も恐れたという。
光雲神社境内の手水舎は水牛の兜の形をしたとても珍しいものです。
「幸運の兜」としてこのような逸話が記されています。
『慶長5年(1600年)関ケ原の戦いに徳川方の先陣を承った黒田勢は、旧岐阜市の東、合渡川に進出した。連日の雨で増水したのを家臣後藤又兵衛の進言で、夜中、強行渡河が決まった。ところが、長政公の乗馬が先頭で足を滑らせ、危うく河中に転落の刹那、川辺に立つ柳の枝に水牛の兜の緒がかかり、幸運にも難を避けることを得ました。この勢いに黒田勢の士気が上がり関ケ原天下分け目の戦いの勝利に大いなる役割を果たすことが出来ました。』
関ヶ原の戦いで長政は「一の谷の兜」を着用していましたので、この逸話は前者の話が形を変えたものかもしれません。
黒田家の象徴でもある「水牛の兜」の手水舎は幸運を呼ぶ兜像として、これまでも多くの方に慕われてきました。
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